二十歳のリアリズム

 二十歳になった。それは単純に生まれてから20年分の時間が経過したということに過ぎない。少なくとも高校の半ばから去年までは誕生日を時間の積み重ねの継起の一つとしてしか捉えることはしていなかった。この時期の俺は一年という時間の積み重ねに対してあまりポジティブになれなくなっていたというのが理由の大半を占める。しかし久しぶりに意味付けを持った時間の経過として先日の誕生日を迎えた。

 二十歳。いわゆる成人。成人式に代表されるように二十歳という年齢はある種の存在の転換として見なされることも往々にしてある。ただ別に成人になったからといって人が生まれ変わりのような現象を起こすとは誰も信じてはいない。この歳で迎える転換というのは転換という言葉で表現するよりむしろ20年積み重ねたものを確認する契機の一つと捉える方が妥当だろう。それに倣って俺の人生というもののある種の進捗のようなものをふと確認しようとする。するとない。どこからどう探しても見つからない。いくつか点のようなものは見つかる。確実にこれまでの人生に残してきた結果や数字というものは確実にある。思い出せる。でもそれがどう繋がって俺がどうなったかと言われるとまるでわからない。点がまるで繋がっていない。だから自分に変化や成長というものが見出せない。この事態に対してここからだとポジティブに向き合えるような態度を基本的には取っている一方でこれまでがないのにどうしてここからが存在するのかという疑問も鎌首をもたげていて参ってしまう。

 辛くなってきたのでここら辺で終わりにするが結論が見出せない。今までの人生で経験した出来事に何の連続性も見出せないんだから論が結べないのは当然の帰結だが。正直に言うと別にこれ以上ぼんやりした進展に期待して人生を続けていくだけのモチベーションはないがだからといって自分にケリをつけるだけの勇気もない。破壊されたい。圧倒的他責。

文脈

こうして時々自分の生活をTwitterのような散文形態ではなくちゃんと体系化された文章として書きたくなることにはちゃんとそれなりの理由がある。決して字数制限とかそういったことが問題じゃない。長文にする必要があるのは自分の中の矛盾と対立をある程度カテゴライズしてある程度まとまった結論に導いてやる必要があるから。そのためにはどうしても書き連ねなければいけないことは多いし書いているうちに結論が見えなくなることだってある。でもそれでこのブログの機能は十分だとは思う。自身の文脈の中で自分を生かしておいてやる必要があると俺は考えている。そうでもしないと色々な方向を向いた俺の感情や存在といったものは散り散りになって分裂してしまうことになるだろうというふうな想像をしているので。元から一つの方向を向いていないものを一つの文脈に当てはめる過程で予想とはあらぬ方向に向かうことになったり収斂が困難になったりするなんてのはある意味とても自然なことのように思える。そもそも自分の文脈の中でうまく生きていける人間に日記や手紙は必要ない。俺はこうしてなんとか感情を一つの箱にカテゴライズして放り込むことで自分を守ってる。そうはいっても読み返せばどれもカオスで結論も何も無いものが大半にはなる。それでも吐くように書き続けるぐらいしかできそうなことがないとも思う。結局自分の中の世界は辛うじてこうやって機能させることができても外の世界は機能すらしていなかったことにようやく気づいた。少なくとも10年ほども前から俺はハツカネズミのように同じところをぐるぐる回るだけの生を送ってきたように思う。一般論的には誰もが問題を抱えてて誰の人生にもさして意味はないのかもしれないが、俺がその一例でしかないとしてもそれに対して俺は深く憤っているし、傷ついてもいる。せめてこうやって自分の心の動きを文脈の中に落とし込んでから現実に対して極めてアクチュアルな行動を取るのが賢明な手だとは感じてる。なんにせよ俺は行き詰まっている。この文章も外のことも。

行き詰まり

 最近生きていることそのものに行き詰まりを感じる。元から俺の身体はそんなに都合良く遊べるようにはできてなくて、それをてんかんが明らかにしたというだけのことかもしれんが、てんかんが俺の身体を変えたのか、それともてんかんはダメだった身体を自身の生活に暴露したファクターでしかないのか。無茶の効かなくなった身体で生きていくことになった俺にはどっちだろうともうどうでもいい。それはドーナツの穴を空白と見るか存在と見るかという問題に近い形而上学的でかつどうでもいい問題なんだろう。

 てんかんの発覚は俺の生活をラディカルに変えた。多くを奪ったけど同時に大切なことも学んだ。奪われたものはある程度の無茶を前提にして色々とこなしてきたこれまでの生活とポジティブ思考。薬と生きていく生活はそこそこ辛い。というのも現状薬は俺が救急搬送されずに済むようにした代わりに集中力を奪ってとんでもないイライラと眠気をもたらした。これをきっかけにいくつ授業を飛んだり脱走したりしたかもう考えたくもない。それに何より気が滅入る。ただ休憩時間を多く取るようになってからようやく他人がどう生きているのか理解できるようになってきた気がする。一休みして他人に心開くように努めたら他人もそれなりに応えてくれるって実感はこれまで抱えてきた「俺が頑張らなくては」とか「一人で解決せねば」といった強迫観念的な規範意識をだいぶ軽くしてくれたように思う。深い悲しみにはそれなりの成長が伴うというのは文学の古くからのテーゼであってそれは万人に当てはまることなんだろうなと思う。

 俺が新しく抱えた生活の新体系は向き合うにはまだまだ勇気も時間も足りない。これからもまだまだ絶望と隣り合わせの生活を送るしかないのだろうとは思う。この現状の課題に直に向き合うのは今はあまりにも恐ろしくて逃げるために暇をとにかく遠ざける日々が続いてる。新しありバイトもバンドも恋愛感情すらもその延長線上にあるものに過ぎないのかもしれない。他人の頼り方はわかってきたけどそれは俺の生活には間接的にしか影響してこない。根本的な解決は自分がもたらすしかない。だから今果てしない行き詰まりを感じながらも何かしているしかない。ハツカネズミのように同じところをグルグル回るような生活が続いているように思えるがそれを一瞬でも否定できるような瞬間だけを追ってる。どこへもいけないという感覚に苛まれてる。どこにいくかを決められるのはずいぶん後のことになるだろう。

生と死のこと

 反対語ってあるじゃん。逆の意味をとるそれぞれの概念同士のこと。あれって必ずしも明白な境界線が存在する独立した概念同士の対置を指してるわけじゃないと俺は考えてる。ミクロに見れば独立したもの同士でもマクロに考察し直したらもっと大きな集合の要素の一つだったりそもそも二つの境界がぼやけていたり。

 例えば生と死のこと。人の生と死を検証することは医学とか生物学とかの観点からは一部例外を除いて結構簡単なんじゃないかと思う。でも果たして状態としての死は生者にとっては何なのかなと。極端な話人は死んでみるまで死ぬとはどういったものかはわからん。こうした体験してみるまでわからないことというのは生活の中で多数存在する。例えば海外に行くということ。もしくは就職や結婚といったこと。前者って我々はその体験をなんとなく異世界のものとして距離をとって捉えてる節がある気がするけど後者の結婚やら就職ってどうだろうか。なんとなく日常のものとして捉えてると思う。海外に行くことと結婚すること体験としてのの決定的な違いは時間的に広がりを持って捉えてるかどうかってこと、そして自身の社会的、もしくは生活みたいな物理的な状態変化やと思う。この考え方に則ると死もまた日常のカテゴリーの中に組み込むこともできるんじゃないかと俺は考えてる。つまり何が言いたいかっていうと死は生との対立概念じゃなくて生は死を含んで存在してるんじゃないかという話。日常の中に確かに存在はしているけどその体験に共感しえないというだけで異世界的なことではないと俺は考える。

 これで終わろうと思ったけど冒頭で言ったミクロだのマクロだなのことも書きたくなったので書く。ふと気になったのは死は誰のものかということ。命はその持ち主のものだから生はその人のものと捉えて大体大丈夫やと思う。でも死はどうか。死んだという状態は本人に認識できない。つまり言い方を変えると死に主体はあるのかという疑問。まぁ文脈上当然俺は死に主体はないと思ってるわけですけども。だからといって生者はその死を奪い取って冒涜してきた歴史は特殊な例を除いてなくて、基本的には死者には敬意を払って接しててそれは宗教や呪術といった形でその世界へのアプローチを試みた歴史が連綿と大体どこでも続いてきた。そしてそうした死へのアプローチってものは宗教を高度化させてそれは文明に至った。つまり言い換えると文明は死を含む巨大なシステムであって、生が積み上げてきたものの中に最終的に死を入れることで文明というものは高度化してきたのであって、死、もしくは去っていく対象への敬意?のようなものが文明の土台なんじゃねえかなと思う。つまり死は生の活動の結晶である文明が最終的にそれを含むんじゃないかなってのが俺の持論。

 随分調子に乗って書いたけど大したことが書けた気がしない。そもそも長い。でもこーゆーアウトプットの試行錯誤が自分の知性を高めてくれるとは信じてるし時間をかけてゴミを量産していくしかないんじゃねえかなと思ってる。早く寝ようと思ってたけどこんなことしてたら2時前になった。承認欲求が満たされるようなコメント、もしくはなんかしらのフィードバックをくれると喜ぶ。

ハルキスト

 数週間前東京に行ってそこのデカい紀伊國屋村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」を買ってきて以来俺は村上春樹にどハマりしている。1週間間隔で1,2冊増える。こういう人間は「ハルキスト」というカテゴリーに当てはまるんだろうけど俺はなぜかそこに当てはめられることになんとなく抵抗感を感じる。

 思うにこの違和感、もしくは逆張りとも表現できる気持ちの出発点は自分の感性やら選好やらの感情の総合的な部分が一つのカテゴリーに括られることへの抵抗じゃないかなと。俺が村上春樹作品を好きであることは間違いない。でもだからと言ってその属性だけが取り上げられて「ハルキスト」とたった一言で自分というものが表現されうるというのに不足を感じる。「ハルキスト」というのは選好の一部分を指すだけのはずなのにその強い語気が全体の総和まで指してしまっているように俺には思える。

 とまぁこんな感じで逆張り的感情を長々と書いてみた。こんな感じで思考のアウトプット能力を高めるべく諸先輩方に触発されてブログを始めたわけだけれども。これからは流石にもうちょっと中身のあること書いていきたい。こんなことならTwitterでもできるからね。