行き詰まり

 最近生きていることそのものに行き詰まりを感じる。元から俺の身体はそんなに都合良く遊べるようにはできてなくて、それをてんかんが明らかにしたというだけのことかもしれんが、てんかんが俺の身体を変えたのか、それともてんかんはダメだった身体を自身の生活に暴露したファクターでしかないのか。無茶の効かなくなった身体で生きていくことになった俺にはどっちだろうともうどうでもいい。それはドーナツの穴を空白と見るか存在と見るかという問題に近い形而上学的でかつどうでもいい問題なんだろう。

 てんかんの発覚は俺の生活をラディカルに変えた。多くを奪ったけど同時に大切なことも学んだ。奪われたものはある程度の無茶を前提にして色々とこなしてきたこれまでの生活とポジティブ思考。薬と生きていく生活はそこそこ辛い。というのも現状薬は俺が救急搬送されずに済むようにした代わりに集中力を奪ってとんでもないイライラと眠気をもたらした。これをきっかけにいくつ授業を飛んだり脱走したりしたかもう考えたくもない。それに何より気が滅入る。ただ休憩時間を多く取るようになってからようやく他人がどう生きているのか理解できるようになってきた気がする。一休みして他人に心開くように努めたら他人もそれなりに応えてくれるって実感はこれまで抱えてきた「俺が頑張らなくては」とか「一人で解決せねば」といった強迫観念的な規範意識をだいぶ軽くしてくれたように思う。深い悲しみにはそれなりの成長が伴うというのは文学の古くからのテーゼであってそれは万人に当てはまることなんだろうなと思う。

 俺が新しく抱えた生活の新体系は向き合うにはまだまだ勇気も時間も足りない。これからもまだまだ絶望と隣り合わせの生活を送るしかないのだろうとは思う。この現状の課題に直に向き合うのは今はあまりにも恐ろしくて逃げるために暇をとにかく遠ざける日々が続いてる。新しありバイトもバンドも恋愛感情すらもその延長線上にあるものに過ぎないのかもしれない。他人の頼り方はわかってきたけどそれは俺の生活には間接的にしか影響してこない。根本的な解決は自分がもたらすしかない。だから今果てしない行き詰まりを感じながらも何かしているしかない。ハツカネズミのように同じところをグルグル回るような生活が続いているように思えるがそれを一瞬でも否定できるような瞬間だけを追ってる。どこへもいけないという感覚に苛まれてる。どこにいくかを決められるのはずいぶん後のことになるだろう。