文脈

こうして時々自分の生活をTwitterのような散文形態ではなくちゃんと体系化された文章として書きたくなることにはちゃんとそれなりの理由がある。決して字数制限とかそういったことが問題じゃない。長文にする必要があるのは自分の中の矛盾と対立をある程度カテゴライズしてある程度まとまった結論に導いてやる必要があるから。そのためにはどうしても書き連ねなければいけないことは多いし書いているうちに結論が見えなくなることだってある。でもそれでこのブログの機能は十分だとは思う。自身の文脈の中で自分を生かしておいてやる必要があると俺は考えている。そうでもしないと色々な方向を向いた俺の感情や存在といったものは散り散りになって分裂してしまうことになるだろうというふうな想像をしているので。元から一つの方向を向いていないものを一つの文脈に当てはめる過程で予想とはあらぬ方向に向かうことになったり収斂が困難になったりするなんてのはある意味とても自然なことのように思える。そもそも自分の文脈の中でうまく生きていける人間に日記や手紙は必要ない。俺はこうしてなんとか感情を一つの箱にカテゴライズして放り込むことで自分を守ってる。そうはいっても読み返せばどれもカオスで結論も何も無いものが大半にはなる。それでも吐くように書き続けるぐらいしかできそうなことがないとも思う。結局自分の中の世界は辛うじてこうやって機能させることができても外の世界は機能すらしていなかったことにようやく気づいた。少なくとも10年ほども前から俺はハツカネズミのように同じところをぐるぐる回るだけの生を送ってきたように思う。一般論的には誰もが問題を抱えてて誰の人生にもさして意味はないのかもしれないが、俺がその一例でしかないとしてもそれに対して俺は深く憤っているし、傷ついてもいる。せめてこうやって自分の心の動きを文脈の中に落とし込んでから現実に対して極めてアクチュアルな行動を取るのが賢明な手だとは感じてる。なんにせよ俺は行き詰まっている。この文章も外のことも。