生と死のこと

 反対語ってあるじゃん。逆の意味をとるそれぞれの概念同士のこと。あれって必ずしも明白な境界線が存在する独立した概念同士の対置を指してるわけじゃないと俺は考えてる。ミクロに見れば独立したもの同士でもマクロに考察し直したらもっと大きな集合の要素の一つだったりそもそも二つの境界がぼやけていたり。

 例えば生と死のこと。人の生と死を検証することは医学とか生物学とかの観点からは一部例外を除いて結構簡単なんじゃないかと思う。でも果たして状態としての死は生者にとっては何なのかなと。極端な話人は死んでみるまで死ぬとはどういったものかはわからん。こうした体験してみるまでわからないことというのは生活の中で多数存在する。例えば海外に行くということ。もしくは就職や結婚といったこと。前者って我々はその体験をなんとなく異世界のものとして距離をとって捉えてる節がある気がするけど後者の結婚やら就職ってどうだろうか。なんとなく日常のものとして捉えてると思う。海外に行くことと結婚すること体験としてのの決定的な違いは時間的に広がりを持って捉えてるかどうかってこと、そして自身の社会的、もしくは生活みたいな物理的な状態変化やと思う。この考え方に則ると死もまた日常のカテゴリーの中に組み込むこともできるんじゃないかと俺は考えてる。つまり何が言いたいかっていうと死は生との対立概念じゃなくて生は死を含んで存在してるんじゃないかという話。日常の中に確かに存在はしているけどその体験に共感しえないというだけで異世界的なことではないと俺は考える。

 これで終わろうと思ったけど冒頭で言ったミクロだのマクロだなのことも書きたくなったので書く。ふと気になったのは死は誰のものかということ。命はその持ち主のものだから生はその人のものと捉えて大体大丈夫やと思う。でも死はどうか。死んだという状態は本人に認識できない。つまり言い方を変えると死に主体はあるのかという疑問。まぁ文脈上当然俺は死に主体はないと思ってるわけですけども。だからといって生者はその死を奪い取って冒涜してきた歴史は特殊な例を除いてなくて、基本的には死者には敬意を払って接しててそれは宗教や呪術といった形でその世界へのアプローチを試みた歴史が連綿と大体どこでも続いてきた。そしてそうした死へのアプローチってものは宗教を高度化させてそれは文明に至った。つまり言い換えると文明は死を含む巨大なシステムであって、生が積み上げてきたものの中に最終的に死を入れることで文明というものは高度化してきたのであって、死、もしくは去っていく対象への敬意?のようなものが文明の土台なんじゃねえかなと思う。つまり死は生の活動の結晶である文明が最終的にそれを含むんじゃないかなってのが俺の持論。

 随分調子に乗って書いたけど大したことが書けた気がしない。そもそも長い。でもこーゆーアウトプットの試行錯誤が自分の知性を高めてくれるとは信じてるし時間をかけてゴミを量産していくしかないんじゃねえかなと思ってる。早く寝ようと思ってたけどこんなことしてたら2時前になった。承認欲求が満たされるようなコメント、もしくはなんかしらのフィードバックをくれると喜ぶ。